こんにちは、村長です。
今回は「鬱」について私見を綴ろうと思います。
鬱って、本当に辛かった。鬱になっている本人も辛いし、その周囲に居る人も辛かった(と後でよく言われます)。
そんな辛い鬱だから、鬱になるのを防止するために、また、鬱になったらそこから復活してもらうために、もっと研究が進んで、精査された情報を共有することが必要だと思っています。
だけど一方で、鬱は繊細な話で世間体もあるし、鬱であるというだけで取れない免許があったりもするからか、体験談を赤裸々に語ってくれる人がとても少ない。その結果、鬱の情報を周知・共有することができていないのが最大の問題だと思うのです。
だから、鬱で辛い思いをしている人への手助けになれば、また、これから鬱になってしまうかもしれない人に、何かしらのヒントになれば、と思い、私の経験から感じ、考えたことをアウトプットしようと思います。
【お断り】
このブログの内容は、私の体験談という個別の具体例だけでなく、できるだけ多くの人に該当する一般的な内容に近づくよう、私の他に二十人近くの鬱経験者(N数少ないけど…)や、精神科医の話を聞いて、できるだけ抽象化しました。
しかし医学的に認められたものではありませんし、これさえやれば鬱対策はバッチリ!とかいうマニュアルでもありません。何かと断言してそうな文章になっていますが、過剰にはアテにしないでください。
また私が経験した鬱は、暴力によって陥ったものではなく、また、周囲に生存できる環境がある状況で起こった鬱でした。ひどい暴行を受けた際の恐怖とか、命を狙われて生存環境がもう無いことの恐怖とか、そういう類は経験がないのでわかりません。
なお、鬱の中には身体の不調からくる鬱もあります。ホルモンバランスの崩れなどから体調が悪くなって、それが思考に影響していくタイプです。このような鬱は考え方を変えて治すというより、体調を復調させることが根本治癒になるのかもしれません。このタイプの鬱は私の守備範囲外です。ただ、その分野について非常に良いアドバイスをくれる友人が居ます。お悩みの方はご一報ください。ご紹介できるかもです。
あと、「新型鬱」とか、知りません。
その他、私が把握していない鬱もあると思います。だから全ての鬱について網羅しているわけではありません。
予め、お断りしておきます。
① まず結論から
今になって思うと、鬱は私にとって創造的自己破壊でした。
他の鬱経験者も同じようなことを言っています。
それは、その人が、より豊かな一つ上のステージに上がるために、どうしても必要な自己破壊だったのかもしれません。
鬱にならずに成長していくのに越したことはないと思いますが、いったん鬱になってしまったのであれば、もう後戻りはできないのだから、それを機会として捉え、これまでと異なる思考と気持ちで、前に進む。
大事なのは鬱にならないことではなくって、鬱になった時に、周囲の人に助けてもらいながら、もう一度復活し、成長することだと思っています。鬱になったら一人で解決するのは難しいもんです。いろんな鬱経験者と話してみても、やはり周囲の人に支えられ、復活を遂げています。
そうして仲間と共に鬱を乗り越えることができた時、人は包容力のある豊かな心を手に入れることができ、周囲の人に対して、さらなるサポートをするようになるのではなかろうかと思うわけです。
「えー!でも実際に鬱になった時に助けてもらえへんかもしれへんやん!?」
なんて懐疑的に思っているあなた、朗報です。
今のうちに人助けをしていると、いざという時に助けてもらえる確率が上がります。
100%とは言いきれませんが、確率は上がります。
情けは人の為ならず。
備えあれば、憂いなし。
誰しも鬱になる可能性を持っているわけだから、いざと言う時に備えて、今のうちに人助けに精を出しておいてください。
そうすれば、自分も周囲も、どんどん幸せの輪が広がると思います。
② 私が鬱になった経験がお役にたてればと思いまして
みなさんは鬱に対して、どのようなイメージを持ってらっしゃいますか?
怖いもの、何をしでかすかわからないもの、下手したら自殺してしまうもの、「がんばれ」って言うたらアカンらしいもの・・・
実際に鬱になった人と接することが無ければ、漠然とこういうネガティブなイメージが付きまとうのではないかと。私も昔は「鬱ってなんか怖いよねー」くらいの感覚でした。
ところが、まさかまさか、私が鬱になってしまったんですよねw
今から3年ほど前でしょうか。みんなの村(前M&G)の代表に就任した直後、薬事法でこっぴどく叱られて(だって「爽美林」が水いぼに効いちゃうだもんw)、その後いろいろあって鬱になりました。何で鬱になったかの詳細を述べると気分を害する人が出てくるので、そこには触れませんが、私は鬱になりました。
病院に行って診断をもらったわけではありませんが、朝から泣いてばかりで、ごはんも食べられず、人と接するのが本当にしんどくて、事務所に足を運ぶことができず、時に怒りが爆発したり、夜一人でベッドに入ればそのまま翌朝起きられなくなるんじゃないかと暗闇の中で恐怖を感じる日々。そんな期間が半年近くもあったことを考えると、まぁ、きっと鬱でしょう。
そこから苦しみもがいて、周囲に助けられ、なんとか這い上がって今の自分があります。
あんまり公表すべき内容ではないかとは思いましたが、実際に鬱で苦しんでいる人が身近にも居たし、それで命を失った友人も居たし、鬱で苦しんでいる人々が多い時代だとメディアも騒ぐし、だけど、メディアの中には本当に騒がしいだけで、問題の本質をなーんにも理解しないまま、むしろ鬱の恐怖を煽るだけで何の役にも立たない情報も散見されます。だから、もし万が一、そうですね、一万人に一人の割合であったとしても、私の経験が何かしらのお役に立てるのであれば、今のうちにアウトプットしておいた方がいいかな、と思うに至り、ブログに綴ることにしました。
③ 鬱なんて、自分が掲げていた理想と、目の前につきつけられた現実のギャップに苛まされて生じるものでしかなかった
鬱なんて誰でもなりうる心の病です。
殴る蹴るの暴行を受けなくとも、人は他人からの言動だけで大きな衝撃を受け、時として、心が折れることがあります。
「俺はこんなに頑張っているのに!」
「私はあなたのためを思ってやってきたのに!」
「会社がつぶれそうじゃないか!これまで会社のことを思って働いてきたのに!」
きっかけは様々ですが、心の中で起きていることは、たいてい同じのようです。こうあるべきだ、こうあって欲しい、と考える理想と、目の前に突き付けられた現実にギャップを感じ、そのギャップが大きすぎるとか、小さくても許すことができない状態で、そのギャップを乗り越えるだけの気力が無くなった時、人は鬱状態に陥る。メカニズムとしてはこれだけのことだと。となると、誰しもなり得る病気だと思いませんか?
ではなぜ、理想と現実のギャップが起こるのか。
今思えば、今思えばですよ、鬱で苦悩していた当時に持っていた理想像なんて、その中身はスッカラカンでした。実力を伴っていないですから、そんなもんは理想と言うよりただの願望でしかありませんでした。
私だけでなく、鬱になって乗り越えた友人たちも、異口同音です。
ではなぜ、そんなスッカラカンの理想が構築されるのか。
それは、幼少期からの教育の賜物か、理想を高く据えることを要求され、それが自分の中根付いていくことが一因だと思っています。
「部活では最低でも県大会に行かんとあかん」
「キャプテンになってチームを牽引しろ」
「生徒会の役員になって、みんなを引っ張っていけ」
「あんたは国公立大学に行って勉強しなさい」
「上場企業に勤めて、裕福な生活を送る方がいいじゃないか」
「公務員は安定していていいぞ」
という具体的な成績や地位の獲得から、
「男たるもの、涙を見せるな」
「花嫁としてどこに行っても恥ずかしくないように、気遣いのできる女性になりなさい」
「人に迷惑をかけたらあかん」
という生きていく上での所作・思想の一つひとつまで、親からか、先生からか、いつの間にかそういう刷り込み暗示にかけられて、自分の中で理想の姿がどんどん成長していきます。基本的にはそれで良いと思っています。
また、幼少期から勉強やスポーツができる人ほど、自分の中の理想像もどんどん成長していきがちです。だって、なまじっかできちゃうもんだから。
そして、理想像を高く据えることで自分の実力が上がり、良い経験を積めるようになります。自分は充足感に満たされるし、それはそれで素晴らしいことです。しかしそうなってくると、周囲はさらなる期待を寄せるようになるものです。そして、自身もそれにも応えようとします。
幸か不幸か、人間は一旦は行きすぎる思考をする生き物なんですよね。
「お前はもっとできるんじゃないか?」
「そうだ、俺はもっとできる。」
「私の実力はまだまだこんなもんじゃない。」
こうして、何かに成功すると、それまでよりも高い位置に理想の姿を置くようになります。
しかし、その成功が、自分の実力によるものかどうかはわかりません。もし周囲が相対的に下がったことによる成功だとしたら、結局自分は何も実力がついてなかったりもするんです。また周囲に助けられた結果だったのかもしれません。そもそも、自分一人の力なんてちっぽけですから。
だけどそんな中で理想をさらに高く置いてしまったら、理想と現実のギャップはより大きくなります。つまり中味がスッカラカンになるということです。バブル経済みたいなものかもしれないですね。あれも人間の思考が調子に乗って行き過ぎた結果創り出されたもの。バブルはいつか崩壊します。ただの泡ですから。
さて、この時に何かのキッカケで、理想とはかけ離れた、衝撃的な現実を突き付けられたとします。
ここが重要ポイントです。
ここが鬱になるかならないかの分かれ道です。
その理想と現実のギャップを否定し続けるか、認めてギャップを埋めるように考えるかで、鬱になるか否かが決まるんです!たぶん。
自分に素直に、「あぁ、そうか、俺はまだまだショボかったんやな。」と思えたならば、そのショボさ故のギャップを受け入れ、気持ちを切り替えてまたイチから頑張れるかもしれません。自らの実力がバブルであることに気が付けば、自分でバブルをくしゃっと壊して、再建できるんです。
だけど、理想を崩さず、そのギャップを受け入れなかったらどうなるのか。
「俺はこんなに頑張っているのに!」
「私はあなたのためを思ってやってきたのに!」
「会社がつぶれそうじゃないか!これまで会社のことを思って働いてきたのに!」
このように、高い理想と衝撃的な現実の、どうしても埋まらないギャップを認めないでいると、実力がバブルなのに「バブルなんかじゃねー!」とそれを認めないでいると、いよいよ鬱になる環境が整います。つまり、鬱のスタンバイ状態に入ります。
このスタンバイ状態は、傍から見るとケアレスミスを繰り返したり、簡単な短期記憶ができなかったり、ちょっとした思考でもミスを犯すようになります。たぶん。私の経験上。
「あれ?コイツ最近仕事の出来が悪いよな。真面目にはやってるみたいやけど、こんなミスするヤツやったっけ?」
という傾向が見られたならば、それは鬱のスタンバイ状態を疑ってもいいかもしれません。
そうなると、後は、何かの拍子にスイッチに触れれば、鬱になります。
もうそこまでの環境が整ってしまえば、スイッチを強く押すほどの力は要りません。触れるだけで充分です。周囲の人からすると「え?そんなことで?」と思えることであったとしても、スタンバイ状態に入っていれば簡単にスイッチが入るのです。
それまでの過程を把握せず、その瞬間だけを切り取ってしまうと、
「あんなことで鬱になるとは、なんて弱いやつなんだ」
というレッテルを貼られるかもしれませんね。いやいや、過去があって、今の自分があるわけですから。物心ついた時からこれまでの生い立ちの中で、知らず知らずのうちに鬱になる内外の要因が整ってきてたんですよ。
本人は初めてのことですから思考や感情のコントロールができません。周囲も他人のことですから、そんな易々とコントロールできません。だから鬱にならないように生きるのは難しいことなんです。そう、鬱は「心の風邪」と言われるくらい、誰しもに起こりうる心の病なんです。誰しも、理想と現実のギャップに苛まされうるものなのです。
④ 一般的に鬱は「マジメな人」がなりやすいっていうけど、「プライドが高い人」もなりやすいと思っている
鬱なんて自分が持っている理想と、目の前で起きている現実とのギャップに苛まされて起きているだけのことで、そのギャップを辛く感じるのであれば、そんなギャップは無くしてしまえばいいんです。つまり、現実を上げるか、理想を下げればいい。
だけど、精神的に頑張れない時に、それ以上現実の自己レベルを上げることは難しい。であれば、理想を下げればいい。
理想を下げたところで、餓死するような現代日本じゃないです。いつまでこの豊かさが続くか知りませんが、少なくとも今すぐに餓死するようなことはありません。だから、死んじゃうわけじゃないんだし、何か理想と現実のギャップがあったら、理想を下げればいい、と今の私は思う。
なんだけど、幼少期から擦り込まれた理想がプライドを高めてしまうから、こうあるべきだ、と強く思った理想はなかなか下げられない。理想を下げられないのは「プライドが高いから」という言葉が、私にはフィットします。
一般的には、鬱ってマジメな人ほどなりやすい、とよく聞きますが、けっこういい加減な人でも、「プライドが高い」と鬱になります、私みたいに。
そうして理想を下げられず、ギャップが埋まらない状態で居ると、鬱はどんどん悪化していきます。
だから幼少期から何かとデキる人であったとしても、その結果プライドを高く持っているならば、鬱になりやすく、罹ってからも長引きやすいんじゃないかと思うわけです。有名なスポーツ選手とか、芸能人とか、けっこう鬱で苦しんではりますよね。
⑤ 「あいつが鬱に追い込んだ」なんていう人がいますが、外的要因は間接的にしか作用しないのでは?
さて、こうして鬱になるのは、私の場合、周囲の環境も大きく起因していました。
田舎に帰ってきて妻子を養わなければならないという父親のプレッシャー。従業員やその家族の分まで食えるようにしなくてはならない、と考える社長のプレッシャー。販売停止措置を受けた時のお客様の声、従業員の目から来るプレッシャー。その中で不和が起きて、それでもどこかに着地させないといけない先の見えないプレッシャー。
冷静に考えられたなら、「このギャップは私の力不足に起因していたんだ」「そっか、そんなに高い理想を持たなくてもいいのか」という結論を導くことができたかもしれませんが、こうしたプレッシャーが、私の判断力を落としていました。
他にも長時間労働を強いる労働環境や、毎日過剰に叱咤激励されることなど、人の気持ちの余裕をなくし、思考停止にさせてしまうことがあります。つまり、周囲の影響で鬱になるキッカケが生じてしまうことは多々ある話だ、ってことです。
少し話は逸れますが、関西人の私は関東に移り住んだ頃、ボケても突っ込んでもらえない文化のギャップに苛まされ、ストレスを発散するはずの笑いで、逆にストレスを溜めてしまった時期がありました(ツッコミって、けっこう大事なんですよ、関西人にとってはw)。さらに冷夏で毎週末雨が降っていた年は、ストレス発散のテニスもできなくなり、ノイローゼ気味になっていました。その時にさらに職場で激しい叱咤激励を受けていれば、鬱になってたかもしれないですね。冷静に判断できないですもん。
実際、一時住んでいた西岸海洋性気候のバンクーバーでは、晴天が続く乾季の夏よりも、冷たい雨が降り続く雨季の冬の方が自殺率は高いと、現地の人から話を聞きました。
文化や気候や周囲との人間関係など、外的要因が鬱を引き起こす土壌を作っているのです。
だけど、それはあくまでも間接的なキッカケ・要因であって、鬱になる直接原因ではないように思います。
周囲の影響で、自分に余裕が無くなり、思考停止になってしまって、自分で理想と現実のギャップを無くすことができなくなるから、鬱になる。だから周囲の環境に依らず、自身を健全にするには、やはり受け止め方を変える、自分の中の思考を変えるということが根本だと思います。最終的に鬱になるかならないかを左右しているのは自分だから。
誰かが鬱になると、
「あいつが鬱に追い込んだ」
という話を聞いたりします。まぁね、確かに「あいつ」は間接的に鬱に追い込んだのかもしれません。「あいつ」のせいで本人の冷静な判断力が失われ、ギャップを認められなくなったのかな。だけど、ギャップを認めるか認めないかは本人次第なので、やはり直接的には本人のみが鬱を引き起こすように思います。
(それが、思考からくるものか、身体の不調からくるものかはわかりませんが)
⑥ 鬱からの脱却方法 ~まずは逃げろ、逃げろ、逃げろ!~
だから、鬱になったら休むんです。
自分自身を見つめ直し、冷静に判断ができるように、休みが必要なんです。休めなければ、さらに冷静さを失いますから、鬱は悪化します。何が何でも休みましょう。
(病院に行く行かないはどっちでもいいと思います。)
風邪をひいてしまっているのに無理して働くと症状が悪化しやすいように、心の風邪になっているのに、さらに過労してしまうと、最悪な事態を招くこともあります。
もしその地域の気候が合わないなら、自分が心地よいと感じる地域まで逃げても良いかもしれません。そりゃ雨より晴天の方が気分は良いです。気の合う仲間が居る元へ一時的に避難するのも良いかもしれません。会社が過労を押し付けてくるのなら、もう逃げてしまいましょう。全部捨てて逃げろ、逃げろ、逃げろ!です。
ただし、そのためには本人が鬱であることを認めることが必要です。プライドが高くて、「俺が仕事なんて休めるわけない!」なんて思っていると、いつまで経っても快方に向かいません。まずは鬱であることを認める必要があります。
私は、認めましたが、認めた時、とても恐怖を感じました。なぜなら、鬱に対しての知識がなかったからです。まるで出口が見えない暗黒の地下迷路を彷徨っているかのようでした。
ま、鬱になるのが初めてのことなので「経験」が無いのは当たり前ですが、せめて事前に「知識」があったならば、もう少し気が楽だったのではないかと思います。
それもあって、このブログを書いています。
鬱と無関係だと思う人も、今のうちに鬱の「知識」や「体験談」だけにでも触れておいてほしいのです。
(私の発言を鵜呑みにしないでくださいね。他にもいろいろ調べていただければ幸いです。)
ある程度の休養が取れるようになると、ここからが大仕事です。いよいよバブルで積み上げた実力のスッカラカンさを認め、高すぎた理想を壊して、プライドを捨てます。
この「高すぎた理想を壊して、プライドを捨てる」という工程を行わず、いつまでも他責に終始し、逃げるだけで終わってしまうと、また環境が悪化した場合に再度鬱になる可能性を残すことになると思っています。一旦は逃げるべきなんですけどね、いつまでも逃げ続けると、ちょっとね。ここは繊細な話なので、これくらいにして・・・
だから「プライドを捨てる」というのは、とっても大事な工程なんですが、しかし、「プライドを捨てる」って難しいんですよね。プライドを捨てることは、人生で一番難しいことの一つなんじゃないでしょうか。
なので、「単純にプライドを捨てて理想を下げる」というストレートな方法ではなく、「え?こんなんでええの?」っていうことをゼロから積み上げ、結果的に理想を下げても良い心理状態にもっていく方法がオススメです。
理想の姿を追い求めるのではなくて、今生きていて活動している一つひとつを賞賛し、それらを積み重ねる。
⑦ プライドの捨て方 ~それまで自分が抱えていた理想を一旦置いといて、自分にできる、小さなことを積み重ね始める~
とまぁ、抽象的な表現だけでは、よくわかりませんよね。なので、実際私が立ち直っていった具体的なキッカケを使って説明してみます。
当時何年もかけて一生懸命に取り組んできたことを全否定され、だけどプライドを捨てることができず、理想と現実のギャップが大きかった当時は、精神が混乱し、思考がまとまらず、多くの友人に迷惑をかけていました。
そんな中で、当時の私を救ってくれたキッカケが、ある会話にありました。
友人:「今日の体調はどう?ご飯食べた?」
私:「メシはまだ食べられてない。」
友人:「水分摂ってる?」
私:「あぁ、水は飲めた。」
友人:「え!水飲んだん!?あんた、すごいやん。水飲めたんや!」
私:「え?水くらいは飲めたけど、何がすごいねん。」
友人:「だって、昨日まで水もロクに飲めてなかったやん!水飲めるだけすごいやん!」
私:「わけわからん、水を飲むなんていうのは当たり前のことやろ。」
友人:「いやー、それはすごいことやで!」
私:「は?バカにしてんの?」
友人:「バカになんかしてへんよ。だってまずはそこからやん。」
私:「え?これでええの?」
この会話が、鬱から立ち上がるキッカケになりました。
「え?水を飲めたことがそんなにすごいの?まずはここから?」
「え?水を飲めたことがそんなにすごいの?まずはここから?」
「え?水を飲めたことがそんなにすごいの?まずはここから?」
「え?水を飲めたことがそんなにすごいの?まずはここから?」
「え?水を飲めたことがそんなにすごいの?まずはここから?」
私にとってはこのバカにされているかのような賞賛が大事でした。「水を飲む」という、生物であれば当たり前の行為すら、実は賞賛に値すると。つまり、そうした一つひとつの積み重ねの先に、質実剛健な実力が付いてくる。
友人はそれが言いたかったのかどうかは知りませんが、自問自答を繰り返した結果、私はそう解釈しました。
それまでの私は、そういった地味とも思える行動の積み重ねには目を向けず、ちょっとした成功体験から調子に乗って、分相応でない、アホみたいに高い理想を掲げ、それを達成できなかった時に人のせいにして鬱に陥るという、まぁつまりは私の中だけで起こっていた自爆行為であることに気づかされたのです。
周囲からの評価など、他人の目を気にして無駄に高い理想を創り出してきた自分。結局、何かと比較して自分の立ち位置を確認し、悦に入り、それを自分の中の精神的支柱にしてしまっていたんです。相対的な幸福なんて、虚無以外の何物でもないのに。
私の他に、最近鬱を克服した近所の兄ちゃんが居るんですが、その兄ちゃんに、克服のキッカケは何やったん?って聞くと、
近所の兄ちゃん:「家に引きこもってたけど、自分はたまたま料理ができるから、子どもたちの料理を作ってたら、それで子どもが喜んでくれた。そしたら、なんか、それだけでええな、って思えてきてん。」
という旨の話をされていました。
「それってさ、それまで自分が抱えていた理想を捨てて、自分にできる、小さなことを積み重ね始めたことで、鬱から脱却できた、ってことじゃない?」
って抽象的なことを言うたら、目を細めて何度も頷いてはりました。
他にも鬱経験者何人かに同じ質問をしてみたところ、たいてい同じような反応でした。
たぶん、そういうことなんやと思います。
いきなりストレートに理想を下げることは難しいから、まずは今目の前で、自分が起こしている小さなこと、これを積み重ねていきます。それが質実剛健な実力をつける道だし、それだけでも認めてくれる人が居るんだから、その歩みでぜんぜんいいじゃんか、と、こう考えていきます。そうすると高い理想を下げることができる心理状態になっていきます。徐々に、徐々に。
⑧ 人に助けてもらう。陥るキッカケも人だが、立ち直るキッカケもまた、人(な気がする)。
鬱への対処を、冷静な判断力を持っていない状態で一人で行うのは難しいです。だから、信頼おける友人や家族に助けてもらいましょう。
鬱に陥るのにキッカケがあったように、鬱から回復していくのにもまたキッカケがあるように思います。そして、鬱に陥るのが自分以外の人がキッカケであったように、鬱から立ち直るのもまた、自分以外の人がキッカケであったりもするのかな、と思います。
私が鬱になった頃は、2人目の子どもの里帰り出産で妻子が家を離れている頃でした。子どもが家の中をドタバタ走る騒音すら聞こえなくなった虚無な一軒家に、一人ポツンと静かに居て、咽び泣く日々。これは堪えました。季節も冬でしたしねー。
そんな時に、まず私を支えてくれたのは周囲の仲間でした。さすがに出産までは妻に余計な心配をかけたくなかったので、出産が終わるまでは自分の精神状態は一切言わないようにしていました(ま、どうせバレていたでしょうけどw)。
大学時代のツレから、取引先の関係者から、地元の経営者仲間から、テニス仲間まで。落ちたり荒れ狂ったり、なんせ感情と思考のコントロールがまるでできない自分の面倒をみてもらいました。これまで物心ついてからの自分の人生の中で一番迷惑をかけた時期でした。
前述のように、思考をまとめるという意味においては、水を飲めることからの積み重ねが重要でした。しかし、それだけでは精神は落ち着きませんでした。私の場合は、妻が第二子の出産を終えて、丹波に子どもを連れて帰ってきてから、ようやく精神が落ち着いてきました。子どもが廊下をバタバタと走る姿や音だけでも、心が和んでいくのが実感できました。
家族以外にも多くの方々に助けられたのですが、一つ印象的な思い出があります。
その日は朝から何も食べられず、夕方くらいに用事のついでに隣町のうどん屋さんに立ち寄りました。そこのうどん屋のご主人とは日頃から仲良くさせていただいていたこともあって、当時のどう見ても顔色の悪い私を見て、どないしたんや?と。
実はカクカクシカジカありまして、何も食べられないくらいの状態なんやけど、このうどんやったらなんか食べられるねん、みたいなことを言いました。そしたら、
「そんなことやったら毎日でも食べに来い!お金なんかいらんから!」
と言ってくださいました。それを聞いて、嬉しくて、情けなくて、なんか感情がどば~っと溢れ出てきて、恥ずかしながら大将の前でオンオンと泣きながらうどんを食べて、最後は大将の豊満な胸の中に飛び込みました。なんか、ぜーんぶ受け止めてくれるような懐の大きさがその大将にあったんですよね。
人生の最底辺をうろうろしてた当時に励ましてくださったその大将は、今でも私のことを気にかけてくださっていて。家族が増えたり、新たに事業を興す度にお祝いをくださったり。人生、捨てたもんじゃないですね。
あ、思い出したらまた泣けてきた。。。
名は体を表す、優しさに包まれたうどん屋さん「讃岐うどん 優」、一度行ってみてください。
(ステマですw)
私の思考と精神は、そのようにして人に助けられてバランスを取り戻しました。
前述の近所の兄ちゃんも、やはり家族の存在が大きかったと言うてはりました。
「あんな自分を、嫁さんはよう捨てずにいてくれたと思うわ。」
と。子どもたちからはご飯が美味しいと言われ、奥さんからは献身的にサポートされ、いいですね、それでまた家族愛が深まりそうですね。
冷静で居られない時に、思考や感情を正常に取り戻すキッカケを与えてくれるのは、自分以外の人な気がします。
⑨ 自分の自殺を予防するには、人助けと事前学習がカギかと
鬱になることはそこまで悪いこととは思っていません。最悪は、そこから復活できないことです。逆に、鬱を克服するとさらに豊な心を持てるんだし、成長という意味においては、むしろ一旦鬱になって、そこから復活することがベストか、とも思います。ただし、自分一人では復活することが難しいので、鬱になった時に助けてもらえるよう、今のうちに人助けしておきましょう。情けは人の為ならず。
それがなんだ、人が困っていてもスルーしたり、ましてや人を悪意を持って裏切ったりしてるヤツらは。企業秘密を盗んで消えていく会社。車をぶつけといて何もせず現場から逃げ去るヤツ。転売目的で何度も偽名で注文して、一切のお金を払わず逃げようとする泥棒。お前らコケても俺は助けんぞ!どうせそんな振舞をしてたら、お前の周りの連中も、お前がコケても知らんぷりしよるぞ!
って、つい感情が入って言葉が悪くなっちゃいましたw
人は生きてたらいつかコケるんやから、それに備えて人助けしておきましょう。コケた時に一人ぼっちって、ほんまに死にたくなるよ?
だから、自分の自殺を防ぐために、今のうちに人助けをしておきましょうよ。
それと、鬱になってから復活するまでのメカニズム、自殺に至るメカニズムを予め知っておくことも大事だと思います。
これは私の経験からですが、先が見えないことの不安が、何より恐ろしかったです。風邪をひいたら消化の良いもので栄養を取って、あったかくしてよく寝ると治りが早いということが知られているように、鬱になる前に、鬱から抜け出るゴールまでの道のりを予め知っておきたかった。その知識の無さは、いざ鬱になった時の対処を遅らせるでしょうから、結果的に自殺を招くことにつながってしまうのではないかと懸念します。
もちろんそのゴールまでの道のりは人それぞれでしょうが、それらは専門家と言われる先生方なら研究されて、知識もお持ちでしょう。たぶん。
だから、鬱の原因や過程を研究され判明している分だけでも周知させることは、自殺大国日本国だからこそ取り組むべきことなのではないのかな、と思います。メディアはどこぞの有名人が鬱になったとか自殺したとかと騒ぎ立てて鬱の恐怖を煽りますが、そんなことしたら、鬱になった人がもっと恐怖感を抱くでしょ?だから誰かが鬱で自殺した、というニュースだけじゃなくて、どういう心理で鬱が起こり、そしてその鬱からどうやったらカムバックできるのかというメカニズムや、実際に復活された方の成功事例を、もっともっと流して欲しいな、と。
難しい問題だからって臭い物に蓋をしていたら、抜本的には何も変わらんわけで。
毎年3万人とも10万人とも言われる国民が自ら命を落としていくこの国。餓死者は数十人、自殺者は数万人。戦争をしているわけではないのに、マジメでプライドの高い日本国民は、一体何と戦って身を削ってるんでしょうか。
また、これは自殺予防という観点からは少しズレてしまいますが、
「少しでも長く生きたいと思いながら闘病している人がいるのに、健康な身体を持ちながら自殺するなんて、そういう病気で苦しんでいる人たちに対して失礼だ!」
と自殺者を責める人が居ますが、そんなあんたこそ失礼だ。
人間なんて身体と精神の両方がないと健全には生きることができない生き物です。つまり、身体か精神か、どちらか一方が崩壊したら死に至るもんなんです。それを、可視化しやすい身体的な闘病と比較して、精神崩壊を責めるあなた、一度鬱になったらわかると思うわ、生き続けるだけの精神を保ち続けることがどれだけ難しいことなのか。運良く助かることもあれば、そうでないこともあるんだから。
だから亡くなった方を責めることはやめましょう。そんなことより大事なのは、自殺を予防することです。
(存命の方に対する「生きろ」という婉曲的なメッセージであるなら一定の理解はできます。)
また、個人的には薬を飲んでも根本解決はしないように思っています。ただ、医食同源と言うように、食事は大事かもしれません。漢方では胃の調子が悪いと「思い煩う」ようになると言われているようです。食事が臓器に影響を与え、その臓器の不調が思考にも影響することを否定はできないので、健康的な食事が摂れるように、施しておくことも重要だとは思います。
⑩ 鬱になって良かったこと
さて、私は正直、鬱になって良かったなぁ、としみじみ思っています。いや、ほんと良かった。大きく2つのメリットがありました。
・他人の失敗に、寛容になれる
まさか自分が鬱になるなんて思ってもなかったし、鬱なんて遠い存在だと思っていた頃、確かに今より横柄でした。それが実際鬱になって、自分ってこんなにも弱い人間だったんだ、ということに気づかされて、随分変わった気がします。人が辛くて苦しんでいる気持ちがなんとなくわかるようになりました。相手の立場になりきることは誰しも不可能だと思っていて、相手の気持ちの全てが理解できているとは思いませんが、それでも、苦しんでいる相手に寄り添うことはできるようになってきたのかな、とは思います。
会社の経営にしたって、イベントの運営にしたって、人を動かさざるを得ない立場になった時に、相手に親身に寄り添って、その辛さを理解しようとするスタンスは役立っています。これは鬱が教えてくれたこと。
ま、元々の自分勝手さがひどかったので、今どれほど改善できているかはわかりませんがw
あと、あんまり甘やかせても組織が機能しなかったりもするし、相手次第ってところもあるし、そこのバランスは難しいです(・_・;)
・鬱を克服すれば、人としての魅力が増す
最近の若者で、物事の本質を捉えず、経験したこともないのにネットで調べてきた情報を然も自分は全て知っているかのような口調でしゃべってくるヤツがおりますが、聞いていてこっちが恥ずかしくなりますw
なぜなら、若かりし頃の私がそうであったからでありますw
近年はネット社会で、情報化が進んでいるから、誰もがいろんな情報に触手できて、昔よりも頭デッカチになっている傾向はあるのかもしれませんね。そして、然も自分がやったかのような振る舞いをしてしまう。スッカラカンのバブルやのに。便利なネット社会の功罪か。
一方で、一度落ちるところまで落ちてから復活を遂げた鬱経験者の話は、超面白い!鬱の間にもがき苦しんで、物事の本質に出会えれば、そこで、よりブレない精神と思考を手に入れるケースが多くあるんでしょう。そうなると、鬱になった体験談に限らず、その人の口から出てくる言葉が全て自分の言葉で語れるようになるから、説得力もあるし、なんせ伝わる。深く、面白い。
やい!ネットの情報を鵜呑みにしてイキがっている諸君(昔のオレw)!
コピペじゃないのよ、人生は!
⑪ 終わりに
実際に鬱になって身を以って体験しましたが、悔しい現実を受け入れるためには、それまで固定化してきた自分の概念を壊す必要があります。2年ほど前からYouTubeでアップされている「鷹の選択」というフィクション動画のように、長い年月をかけて作ってきた自分の姿を、一度投げ捨てる必要があります。
そうしてプライドを捨てて、空虚な理想を壊して、着実に積み上げたもので力強く生きていく。鬱にでもならない限り、そんなカンタンにぶち壊せないです。マインドを変えることはできないです。だからその生き方に気づかせてくれる鬱は、やはり創造的自己破壊だと思います。
今回のブログは、私自身の経験だけでなく、二十人近い鬱経験者と話をしてきてまとめたものです。で、私の肌感覚ですが、深く面白く、人間的に魅力のある人は、だいたい鬱経験者でした。それだけの所まで到達したからなのか。
だから「この人は鬱経験者やろなぁ」と思って声をかけたら、たいていアタリでした。しかし唯一、その予想が外れた人が居ました。O氏です。
ビックリして、「なんで鬱にならんかったんですか?」というわけのわからない質問をすると、しばらく考えた後で、
O氏:「私はほんまに目の前のことしか見えとらんバカやからと違いますか?」
と。それって鬱から脱却していく時に使う手法だ!と思っていると、続けて
O氏:「遠くを見て、そこまでの道のりを計算してるとしんどいでしょ。私はバカだから、目先のことしか見えとらんのですよ(笑) 人間なんて、なんかの拍子にポンと生まれて、みんな確実に死にゆくだけ。この世に生まれてきた意味なんて、たいしたものはないんちゃいますか。」
そう自嘲気味に話すO氏は、全くのブレを感じさせず、凄まじいオーラを持っていて、今を全力で生きる、魅力的な男です。そんな彼の生き方に、真の豊かさを感じます。
長くなりましたが、以上が私の鬱に対する私見です。
鬱はそれぞれの心の中で起きていることで可視化できないですから、この内容に異論反論があって当然だと思いますし、そこで議論が起こることにまた価値があると思います。
なんせ、鬱になっても復活できる世の中であって欲しいのです。自殺してほしくないんです。だからそのためにいろんな情報を出し合って、建設的に議論し、一人でも多くの人が救われ、豊かな生き方ができる世の中になったらいいなぁ、と願っていますし、私は鬱経験者として、微力ではありますが、できることを粛々と行っていこうと思います。
【2019年2月18日追記】
このブログの問い合わせが多くなってきたので、交流できるようTwitterを始めました。鬱から抜けるため、また鬱になりにくい人の育て方などをつぶやくので、よかったらフォローしてください。@motoutu_maegawa
また、自力で頑張りすぎている人たちに、もっと周囲の協力を得ながら人生をより豊かに生きられるように、気持ちや考えを整理するお手伝い(≒鬱になりにくい人材育成)を行う、NPO法人他力本願研究所を立ち上げました。鬱に関するブログを書いたり、カウンセリングや講演、鬱抜け合宿なども行ったりしていくので、よければそちらも参考にされてください。https://www.tariki-labo.jp/
【追記終わり】