「これからの幸福論 ~今、年下がおもしろい~ 」
こんにちは。
前回、みんなの村 開村ブログを書いてみたところ、とても多くの方にご賛同いただけたようでほんとに嬉しく思っています!
また一方で、それだけ多くの方に読んでいただいたことの責任も感じました。前回のブログは読了10分として、「いいね」の数からすると500人くらいの方には読んでいただいたようで、日本人の10分×500人=5000分≒83時間を割いてしまいました。
改めて責任を持って文章を書こうと思いました。
そんな誓いを新たにした私ですが、2つ目のブログもこれまた長くなってしまいました。読了15分?反省が生かされておりません(^^ゞ
さて、その今回のブログのテーマは「これからの幸福論 ~今、年下がおもしろい~」です。
私は今月35歳の誕生日を迎えました。
(決してプレゼントをおねだりしているわけではありません。くださるならいただきますが(笑))
私は「人生70年も生きることができたら御の字やなぁ」と漠然と思っているので、自分の中の時間軸ではもう半分の折り返し地点まできたんだな、と再確認。
35歳というちょうど折り返し地点に立った最近、いろんな年齢の方とお出会いする機会があって、いろんなことを感じてきました。
その結果、一言でまとめると、総じて「年下がおもしろい」。
私の女性の好みっていう話ではありません。
(妻は年下、それも永遠の28歳らしいですが)
男女関係なく、このタイミングで年下がおもしろいと感じるんです。
今回は、そのおもしろい年下から垣間見えた、「これからの幸福論」について考えてみました。
●「バブル絶頂期」を境にした世代分け
まず日本の近代史を語るとき、必ず出てくるキーワードが「バブル経済とその崩壊」。これは歴史上大きな転換期だったわけで、それを経験していたか否かは、その後の人間形成にも影響を与えているような気がしています。
バブルの絶頂期は1986~1991年らしいです。1978年生まれの私の歳で言うと、8~13歳。物心ついたころから日本経済が実態以上に急上昇してたんですね。その年齢では当時の経済状況を数字などで理解することは当然できませんでしたが、日本全体の上昇雰囲気を、子供ながらに肌で感じていたように思います。夜のテレビ番組も笑い声ばっかりやったような。
時代は流れて1991年ごろにバブルが弾けたらしいです。当時13歳だった私には「マジか!バブルが弾けたぞ!これはやばい!」なんていう実感は当然ありませんでした。ただ、そこから大人になるにつれ、「あれ?日本って経済大国やなかったん?」という局面に出くわす機会が増えてきたのは確かです。
そして今、2013年。バブルが弾けてから22年ですか。
バブルの絶頂期に私は8歳だからまだなんとなく国全体の上昇気流を肌で感じるものがありましたが、それより下の歳だった人たちは、バブルの絶頂を肌で感じることもなかったんやないかなー。感じたとしても記憶にないか。つまり、月日が流れ、2013年現在で30代前半より下の世代がバブルの絶頂を全く感じていない世代になるわけですね。
2013年現在、「バブル」という切り口で世代ごとにセグメントしてみると、きっとこんな感じ。
30代前半まで → バブルの絶頂を微塵も感じていない世代
30代中盤~40代前半まで → バブルのことは子供の頃に肌で感じている程度
40代中盤~団塊の世代まで → バブル絶頂の頃に社会人として日本を牽引していた
(特に50代後半~団塊の世代までは自分たちが働き盛りの頃にバブルの絶頂を迎えている)
私が35歳。身勝手ながら私中心に世の中を雑にセグメント分けすると、年下はバブルを経験しておらず、ちょっと年上はバブルについて遠くから見た程度。団塊の世代に至っては、バブル絶頂を働き盛りのタイミングで迎えられた方々となります。
最近は仕事や町づくりなどで20代から団塊の世代までの方とお出会いする機会が多いのですが、特に年下世代と団塊の世代とで感性がまるっきり異なるように見受けられるので、今回はその2つの世代間の価値観にフォーカスして書いてみます。
●働き盛りにバブルの絶頂を迎えている団塊の世代の方と出会って感じること
景気が良かった頃は、日本全体が右肩上がりなので、周囲の皆と同じことをしていれば右肩上がりにお金が手に入った時代。だから、お金を得るために特に個性なんかは必要なかったのかもしれない。同じような車に乗って、同じような家を建てて、同じような働きっぷりで、それで良かった。
なのでそこには特に「攻め」は必要なかったのかと勝手に想像しています。攻めなくてもお金が入ってくるから。むしろ、攻めて目立つことしたら出る杭は打たれるわけで。
攻めなくてもよいのであれば、たいていの場合、おのずと精神的に次のステージとして「守り」「保守」の意識が高まってくるのではなかろうかと思うわけです。「このペースでお金が入ってくるように守らないといけない」と。
だから自分の地位や名誉にしがみつく。
自分が在籍している間は何事ももめごとを起こさないように、隠す、ごまかす、先送る。
人間関係も同様に、自分の意見と異なる人とは、交わらない、距離を置く、堰き止める。
とまぁこれは諸先輩方に対して失礼な表現をしてしまったかもしれませんが、上記の生き方が悪い生き方だというわけではなく、その右肩上がりの時代に沿った生き方だったんだと思います。だってそれで一定の貨幣と幸福が得られるんですもん。もし私がその時代にこの35歳を迎えていたら、私だって右に倣えで守りに入っていたと思います。
●一方でバブルを知らない年下世代と会って感じること
好景気の頃を知らない年下の世代は、物心ついた時から大人たちの「不況や、不況や」という話を聞きながら育ってきています。だから、不況が当たり前。お金がそんなになくて当たり前。
なので、
「貨幣にのみ幸福の価値を置いてしまうと、自分たちの幸せはどんどん縮小していくことになってしまいますよね。だってテレビや新聞でも、日本の借金(国債)は膨らむばかりで、これから経済は右肩下がりになっていくよ、ということを言うてるでしょ。となればこれから持てるお金の総量は少なくなるわけで、その少なくなるお金と幸福を比例させたら、自分たちの幸せが少なくなっちゃうじゃないですか。」
ということを、意識してかどうかはわかりませんが、彼らは「お金」に囚われない、お金とは別のモノサシによって得られる幸福感を見い出してきているように思います。
国全体のお金がなくなってきて、国民が工夫するようになってきている、というか。
彼らの多くは、ある程度の金銭も求めていますが、目の前の課題を周囲の人たちと一緒に解決していく過程を楽しんでいるように見えます。キレイで金に困らない生活というよりかは、楽しく食うに困らない程度の生活を求めている。そんな気がします。
●団塊の世代 V.S. 年下世代 【お金について】
昨年11月、丹波市市議会選挙で横田親の後援会会長として選挙活動を行いましたが、選挙戦にかかった費用は30万円程度。一般的には、法で定められた上限である350万円を筒いっぱい使うことが多いようですから、その1/10以下で、いかにお金をかけずにやり抜いたかをご理解いただけるかと思います。
で、横田が当選してから現職の団塊の世代の議員さんと会話する機会があって、議員報酬について意見が割れました。
丹波市の市議会議員の場合、議員報酬は年間500万円以上あります。団塊の世代、つまりもう現役を引退された世代で500万円もあれば、丹波市においては全く食うに困らない生活ができるはずです。しかし、
ある議員さん:「まずね、この議員報酬をもっと上げなきゃいけないと思うの。」
私:「へ?そのご年齢で丹波暮らしやと500万もあれば十分食っていけるでしょー!」
ある議員さん:「でも、食べるだけじゃなくて選挙にもお金がかかるじゃない。」
私:「はぁ。僕らの選挙費用は30万円くらいでしたけど?」
ある議員さん:「それはあなた達だからできることでしょ?」
私:「いや、誰だってできると思いますよ。今はそれだけのインフラが整ってるし、実際それでやれることは実証できたわけですから。」
ある議員さん:「いえ、私たちには無理なの。だから議員報酬は上げるべきよ。」
ほほぅ。
つまり、市民のためというよりかは、まずは自分の選挙のために、次の4年間でも今の地位を保つために、今よりもお金が必要で、それを市民一人ひとりが払う税金で徴収したい、ということ。
まぁお金が湯水の如く湧いてくるのであればその発想でもいいかもしれませんが、残念ながら今は不景気です。本来であれば、まずは限られた資金でなんとかやり繰りしよう、どうやったら30万円で選挙ができるのか、と本腰入れて調べるべきでしょう。
丹波市の場合、市町村合併による特例措置で現在は国からの交付金をいただいていますが、これは平成27年度から減り始めて、32年度には完全になくなり、今より約30億円も歳入が減ることになります。当然今のこのペースで歳出が続けば財政赤字になることが明白で、さすがに市議会議員であればそれくらいの前提は理解されておられるはず。
そんな中、次の選挙で今の自分の地位を保つためには、さらなるお金が必要だと唱えておられる、団塊の世代の市議会議員。
一方で、年下の世代では
「議会なんて年間70日程度しか開かれへんねんから、議員報酬は500万円もあれば十分やろ。もっと減らしてもええんちゃうん?」
なんていう話すら出ています。
もちろん議会が開かれていない日に、いろんな調査をしたり、町づくり活動をされたりしているので、その70日以外は遊んでいるのか、といえばそういうわけではありません。しかし、空いている時間を活用して、町づくりを進めながらも収入を得ることが不可能かといえば、それは可能なはずです。今のペースで歳出が続けば数年後には市の財政が赤字になることが明白なわけですから、議員だって自らの身を削って、お金が欲しいなら不足分は自助努力で賄いましょうよ、という考えです。
またこの若者世代の多くは、町の人たちと一緒になって楽しみながら町づくりを手がける風潮があるように思います。その町づくりを行うための手段として、議員になったり、会社経営したり、イベントを企てたりしているわけで、主眼は「町の幸福」にあって、自分の地位やお金にはなさそうです。だからどうしてもそこにお金が要るのならば、必要最小限のお金でなんとかしよう、そんな感じ。
話は変わりますが、「自動車」に関しても言えるかもしれません。
団塊の世代は若者の車離れが進んでいることに憂いているようですが、今時の若者は車を必要としない楽しい時間の過ごし方を見出しているわけですから、わざわざ本体も維持も高額になる車を買う必要がないんですよね。都会であれば電車があるし、どうしても車が必要になったらレンタカーを借りればいいし。
だけど車を所有しないそんな若者に「最近の若者には欲がない」というレッテルを貼って疑問視する団塊の世代。欲が無いのではなく、お金がないことをどの世代よりも自覚していて、その中で上手に生きていくことに長けてるだけのことだと思います。
◇団塊の世代
お金がたくさんある時代に、お金に頼った生き方をしてきたから、今でもお金や消費が必要で、金銭的な安定により自らを保身する
◇年下世代
もともとお金がないので、できるだけお金を使わずに、みんなで楽しく物事を解決していく
こんなところでしょうか。
【あらかじめ、お断り】
両者の世代間のお金に対する考え方について、その世代の方々の全員がこのような発想をされるわけではありません。今回の事例はあくまでも各世代の「傾向」を知るうえでの一つのサンプルと捉えてください。
●団塊の世代 V.S. 年下世代 【つながりについて】
人は集団でしか生きていけない生き物ですから、必ず周囲の人とつながりながら生きています。最近「つながり」だとか「絆」のような言葉がよく使われていますが、これは今になって発生したものではなく、昔からあったことですしね。
ただ、そのつながりの性質やつながり方は、団塊の世代と年下世代とで異なるようです。
団塊の世代は一つの会社で終身雇用してもらえるのが一般的でしたから、一つ所に住んで、その地域のつながりとか、既存の会社組織のつながりを保つことが多かったんじゃないでしょうか。あまり流動的ではない、固定化したタイプのつながり方です。
一方で終身雇用制度が崩れている年下世代は、転職やそれによる引っ越しも比較的増えているため、一つ所で同じ組織とつながり続けることが減ってきているはずです。移り変わるいろんな地域や組織の中で、新しい出会いや情報、学びを得て、そしてまた次なるステージに移っていく。流動的なコミュニティ作りが上手、そんなイメージです。
また今の時代はソーシャルメディアというツールがあるので、一度つながってしまえば、同じ趣味であったり、同じ志を持っている者同士が、両者の距離とは無関係につながりを維持することができるようになりました。だから一つの組織や地域に固定的に縛られることなく、流動的なつながりを次々と生むことを可能にしているのだと思います。
終身雇用ベースの考えで言うと、転職や引っ越しでつながる人をどんどん変えていくのは足軽な、腰掛け的な人間関係に見えるかもしれませんが、今は大企業だって経営不振に陥る時代です。いろんなコミュニティで情報収集してきて、自分が信じる道に次から次へと進んでいかないと会社と一緒に共倒れになってしまうかもしれません。この年下世代の流動的なつながり方は、そうした危機意識から生まれているのかもしれません。
◇団塊の世代
地域や会社組織など、固定化されたつながりを持ち続ける
◇年下世代
ソーシャルメディアなどを活用して、地域や会社組織以外に、同じような志を持つ人たちと流動的につながれる
●じゃぁ「これからの幸福論」って?
団塊の世代と年下世代の価値観の違いについて、「お金について」と「つながりについて」を例にとって考えてみました。
※他にも「論理的思考について」なんていう話題も取り上げたかったのですが、あまりにも長くなりそうなのでやめておきました(笑)
で、これらの例から考察するに、その団塊の世代の生き方が今の不景気な時代にマッチしているかというと、まぁマッチしていないですよね。だからか、団塊の世代の方と一緒にお酒を飲んでいると、「過去の武勇伝」と「現在の愚痴」を聞くことが多いかなー。そりゃそうです、だってその生き方では今の時代にマッチしてないんだもん。
一方で年下世代との会話は、たいてい新しい価値観をもたらしてくれます。お金のことも、つながりのことも。これからの時代に必要なものが何なのかのヒントをくれます。だからなのか、私の周りは年下だらけ。そこには希望があって、いつも前向きな発想で取り組んでいます。
で、そういった年下世代から教わった「これからの幸福論」をまとめてみると、
① 物理的にお金に頼らない生き方をする
② 精神的にお金以外に幸せの価値を見出す
という2点に集約されるのかもしれません。
① は都市部では難しくて田舎の方が実現しやすい世界だと思います。田舎は住まいは安いし、食べ物は自給自足に近いことができるし。お金に困らない生活から、食うに困らない生活へのシフトがしやすいわけです。
(そんなこともあって、今丹波市では官民あげて移住者を募集しています!Iターン者大募集です!詳しくはまたブログに書きますが!)
② は精神的なお話で。
「お金を得るために守りに入って閉塞感が生まれても、結果としてお金を手に入れてなんとか幸福感を得られた時代」から、「いよいよお金がなくなって、さらに閉塞感までを持ち合わせてしまうと精神的に辛すぎる時代」へ。
堰き止めると水が淀む。水が淀むと必ず腐る。
人間の心も同じだと思うんです。
何かを守るために回りを囲って堰を作ると、一時は平穏になりますが、いつしかそれが自分の心の中に閉塞感をもたらしてしまう。
だからこそ、初めからお金のない今の時代に生まれてきた年下世代は、わざわざその堰を切って荒波を楽しんでいるように見えます。金銭的な安定を捨てて、社会の課題のために身を投じて、そこの荒波にもまれ、その波を乗りこなせるようになったら、またさらに高い波を求めて次から次へと活躍の場を変えていく。まるで荒波の中でバランスを取り続けるのに快感を覚えたサーファーみたいに。
(私はサーフィンしたことないんですけどね(・o・))
確かに、そうすれば絶対に腐らないですもんね。
幸いソーシャルメディアの普及もあって、流動的につながり続けることが可能となりました。荒波に立ち向かう人同士でつながり合って、情報を交換しながら、議論を深めながら、場所を固定化せず、波の高い場所に次から次へと攻めていく。
社会の課題に対して立ち向かうから、その課題を解決できた時にはその周囲の人たちに喜んでもらえる。だからそこから得られる幸福感がたまらなく気持ちいいんです。人に感謝されることで得られる幸福感。
前回ブログで紹介した海士町にIターンしていく若者が後を絶たないのも、
「ここには仕事はない。だけど社会的課題があるんだ。どうだ、一緒にこの課題を解決しないか?」
という山内町長の言葉に感化されるだけの価値観が若者に備わっているからだと思います。
3.11の東日本大震災の時もそうでした。
私もボランティアに行きましたが、一緒にボランティア活動しているのはほとんど若者でした。そしてボランティア活動をした後、被災者の方が私たちにかけてくださる「ありがとうございました」の言葉に対して、私たちは自然と「ありがとうございました」という返事をしてるんですね。感謝されることで自分の心が満たされていくから、ボランティアしてる側も自然と「ありがとう」の言葉が出てくるんですよね。
お金をかけなくても、それだけの幸福を得ることができるわけです。むしろお金を持っていると、精神的に守りに入って立ち向かえなくなるから、お金が無い方がより高い幸福感を得られるのかもしれませんね。
さぁここまで勝手に団塊の世代と年下世代を客観視した感想を述べてきましたが、「じゃぁボーダーのお前はどうやねん!」というツッコミをいただきそうです。
私は、これまでは団塊の世代の考え方に寄っていました。そりゃ、これまでは年上の先輩方から学ぶ機会しか無かったですしね。でもその考え方だと、今の時代を日本で生き抜くのにはどうしても無理があるんですよね。海外、特に経済成長期にあるアジアに出れば可能な生き方でしょうが、じゃぁお前は海外に出たいのか、と言われると、そんなこともなく。むしろ日本の田舎で住んでたい欲求の方が高かったんです。
そんな時、この歳になっていろいろと年下世代と話をするようになって、その新しい価値観に目から鱗でもう虜になっている自分がいます。
なんていうか、心が豊かになるというか。救われたというか。
日本の自殺率の高さは異常ですが、これが景気の悪さと関連していると言うならば、経済成長や貨幣にだけ幸福の価値を置くことの危険性が数字に現れているんじゃないかな、と思います。
日本が餓死者を続出させるような国であればわからなくもないですが、実際は餓死される方なんてほとんどいないわけで、つまり、食うに困らない生活ができているわけで、あとは精神的な守りの閉塞感から抜け出して、堰を切って心を豊かにしていく生き方を追求していくことが大事なんだと思います。
そしてそれが、年下世代が率先してやっている生き方なのかな、と思うわけです。
そうして一旦価値観を振り切ってしまえば、あとは異なる価値観を持ち、現在の日本で大きな影響力を持つ団塊の世代と、どうやって一緒に幸せを目指していくのか、これが最も大きな課題なように思います。私の周りの後継ぎ経営者も事業承継で困っています。「親父がわけのわからん金の使い方するー!」と悲鳴をあげてたり。がんばれー。私も親父から事業承継するのはタイヘンでした(^^ゞ
さぁ今夜もまた、年下くんたちに学ばせてもらおうか、「これからの幸福論」を。
(追伸)
今後もこんなタッチでブログを書いていきます。
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でも「いいね」の強要はしたくないので、ブログの内容とか、「みんなの村」がやろうとしていることを「いいね」と思わなかったら、絶対に「いいね」ボタンを押さないでください。
【最後にもう一度、お断り】
年下ばかりを褒めちぎって、団塊の世代をけなしてしまったかのような印象を受けるかもしれませんが、これはあくまでも「世代」についての話で、「個人」についての話ではありません。つまり個人差があります。実際に私自身も尊敬してやまない団塊の世代の方はいらっしゃいますし、逆に情けないと感じる年下もおります。あくまでも私が感じた両者の「世代」の「傾向」であることをご了承ください。